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今年こそ日常を・・・2

 新型コロナが急速に感染しはじめた昨年2月。北茨城市の五浦で行われるはずだった西川チェーン専門店の関東地区部会の総会が急遽中止となりました。ホテルを手配してくれた水戸の西川チェーンの久野さんが「ホテルにお詫びがてら行こうよ」との事で3人で五浦温泉へ。その前回の続きです。

 翌日は念願叶って西山荘へ。小さい頃から年寄っ子だった私は、祖父と水戸黄門を見ていました。西山荘は行ってみたかったのです。

 西山荘の入口を抜けると美しい庭園が広がります。とても澄んだ空気の中、山間の奥を一歩一歩足を進ませると「あー、ここで大日本史を・・・」と、感動いたします。

 徳川光圀公は家督を3代綱條公に譲ると、大日本史を編纂される為に今から331年前の元禄4年5月江戸城を後に、西山御殿に住まわれます。亡くなるまでの 年間、多くの領民と親交を重ね人々から「黄門様」と慕われました。

 

 

西山荘の門。山里のようです。

「何で黄門様と言うのかな・・・?」違和感もありませんでしたが、テレビの番組で水戸黄門について色々とやった時、歴史好きの私は食い入るように観ました。

 ちょっと難しい話しになるので簡単にいたしますと、元々は今から1317年前の飛鳥時代後期、慶雲2年4月に定められた法令の中に新たに「中納言」と言う官職が設置されました。

 大納言は上官の左大臣や右大臣と国政につとめ、その大納言の補佐役として中納言が置かれす。この中納言の官職が当時の中国の官職の「黄門」に似ていることから中納言を「黄門」と言い、中納言だった光圀公を出身地の「水戸」と合わせて「水戸黄門」と呼んだそうです。平安時代には平清盛の三男、平宗盛や中納言を与えられた公家さんも黄門にあたります。

 そして水戸では光圀公の10代慶篤公まで7人が水戸黄門だったのです!諺に「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」弘法大師以外に大師は沢山おりますが大師と聞くと弘法大師を。歴史上に太閤も沢山いましたが、豊臣秀吉を専売特許のように思い浮かべますよね。黄門も沢山いるのに、どうしても時代劇の光圀公を思い浮かべてしまいます。

 黄門様の旅は一番長い旅で隠居前に江ノ島や日光等を歩き、隠居後には江戸より市川から成田を通り、水戸城に入ったそうです。

 徳川家康公の孫でもあった光圀公は江戸時代から庶民に人気で、明治時代に講釈師が助さん格さんを連れての漫遊記を作り、更に人気がでて昭和時代のテレビ時代劇と繋がりました。

 助さん格さんはモデルがいて、実際には学者さんだったそうです。また、諸説あるようですがラーメンを初めて食べたと言われます。江戸時代のラーメンってどんな味だったのでしょうね?水戸市内でそのラーメンを復元しているお店があるそうです。ぜひ食べてみたいですね。

 美しい庭園を進むと沢が流れ、この付近に助さんのモデル佐々宗淳など家臣の屋敷があったそうです。西山御殿では何百種もの薬草の調合や古墳の調査なども行われたそうで「さすが水戸黄門だな!」と、御殿のすぐ近くで色々な研究や事業をされ、偉業のすごさに驚くばかりです。

 更に奥へ進むとその先には大きな茅葺き屋根が現われ、その手前の門の脇を澄んだ川が流れて美しい風景です。大きな桧や杉の木がバランス良く生えていますがこれもお庭造りをされた時に、「きっと計算されたものなのかな?」などと考えていました。

 

【御殿】文化14年野火で焼失しますが8代藩主

徳川齊脩(なりのぶ)公により再建されました。

 メインの西山御殿と言う建物に着きました。なだらかな曲線に刈られた茅葺きの御殿を見て「清楚だな」。そんな時間がストップしてしまうようです。丁度梅がキレイに咲き誇り、趣のあるその建物は春の梅を愛で、秋の月を見ても良し。そんな経験をしてみたい建物です。「でも、質素だな!」。茅葺きの屋根や荒く塗られた土の壁など、殿様の隠居所には質素です。優美や典雅と言ったものは一切ありません。

 何より光圀公が座る御座の間と、家臣などが控える次の間の境には敷居がないのです。お百姓や町民達と身分の隔てなく話ができるように部屋にも上下の隔てが無いようにという光圀公のお考えだったそうです。黄門様の人気が上がるのも分かりますね。

 

 また、明(みん)から学者の朱舜水を招き儒教を直接学んだそうです。「生涯現役だったんだ!」隠居後も色々な調査や学問など、すごいと思いました。

 朱舜水は儒教の他、耕作や建築、医学や料理等を奨励し水戸藩の教学を盛んにしたそうです。「なるほど!だからラーメン!」と、黄門様が日本で初めてラーメンを食べたと言う話しが繋がりました。

 

御殿の梅

 光圀公は漢詩で「世間の歳月の流れは私の知るところでないなぜならこの山の中は別世界なのだから」と詠みました。

静寂とした建物、自然を生かした池や木々の一本一本が自然体な庭。西山御殿は世俗から離れた光圀公の理想の世界だったのですね。

 

西山荘の門。山里のようです。

 そして元禄13年12月6日にこの西山御殿で生涯を終えます。

享年74歳。世間では「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」と狂歌が広まります。国の宝が二つなくなった。産出の量が減った佐渡の金山と、水戸の黄門様。という意味で、それほど世の中で光圀公の死は惜しまれたそうです。

 西山御殿を後に西山荘と呼ばれ、平成28年には国の史跡及び名勝に指定されました。この後は絶叫バンジージャンプへ・・・