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ニューズレター109号「楽しかった大人の遠足Ⅱ」

 5月25日、緊急事態宣言が解除されましたが電車などに乗る気分にもなれず、それならばと中学時代に遠足で歩いたコースを自転車で回りました。前回は太古からの見沼の移り変わりを書かせて頂きましたが、その続きです。

 見沼通船堀を後に今度は清泰寺へ。見性院の墳墓や多くの庚申塔が建つ事で有名です。赤山街道から境内へ入ると35年前とは違い、本堂も新しく再建されて立派です。

「おー、この塔だよ!」と早速、整然と立ち並んだ庚申塔が出迎えてくれます。清泰寺は平安初期に比叡山の三代座主・慈覚大師によって開かれたそうです。庚申塔は237年前の天明3年と160年前の万延元年に建てられたもので351基揃って現存するのはとても珍しいそうです。

庚申を供養(※1)する塔が江戸の初期頃から、盛んに建られたそうです。

「キレイに整った塔だな!」。丈が揃った石に「庚申塔」と刻まれていますが、よく見ると文字の違いが分かります。ひと文字づつ見比べると面白いかも知れませんね。

 いよいよ見性院の墳墓へ。「あれ?こんなに大きかったかな?」記憶が曖昧で、木に覆われこぢんまりしていたと思いましたが、開放感がとても大きく見えます。元々は会津藩で霊廟が建てられたそうですが、現在は墓標と葵の紋が付いた門が残されています。

 今 からちょうど 年前の大河ドラマ葵徳川三代で、見性院が登場する場面を覚えています。見性院は武田信玄公の二女として生まれますが、剃髪後の見性院と言う院号のみで、幼いときからの名前は定かではないようです。

 武田家の重臣、穴山信君(剃髪し穴山梅雪)の正室として嫁ぎますが、梅雪は信玄公が逝去すると信玄公の子、武田勝頼と反りが合わなかったようで、織田や徳川へ使えます。穴山信君は信玄公の一字の「信」や、その息女を正妻に迎えるなど、信玄公とそうとうな信頼関係だったと思います。

 穴山信君が本能寺の変の折りに落命すると見性院は家康公の庇護を受け、現在武道館がある北の丸のあたりにあったと言う、江戸城内の比丘尼屋敷に入ります。

 二代将軍秀忠公と侍女の静との間に子が授かると、嫉妬深い正室お江与の方から静と子を守る為に、老中の土井利勝が見性院に二人の身を預けます。

 静は見性院が家康公から与えられた領地、現在のさいたま市緑区大牧の武州足立郡の大牧村で幸松を出産すると、梅雪の家臣有泉五兵衛の夫妻が世話をしたとされます。

 幸松は3歳より見性院のそばで育てられ、7歳になると高遠藩主・保科正光に養育を託します。幸松を見送る見性院は涙が乾く間がなかったそうです。保科正光は元々、武田信玄公に仕えましたが、後に徳川家に使えます。

 正光に幸松の実父である将軍秀忠公より養子にせよとの内意が下ると、保科家の養子となり保科正之と名乗ります。

 兄の三代将軍家光公は正之をことのほか可愛がり、別格の扱いをするなど、政治にも参加させたそうです。

 その後出羽国山形藩から会津藩に移り会津松平家の祖となりますが、保科家への恩義を忘れずに保科正光を名乗り、松平を名乗ったのは三代正容からでした。将軍家光は正之に「宗家(※2)を頼みおく」と遺言し、それが会津松平家の家訓ともなり、藩主・藩士はこれを忠実に守ったそうで、江戸時代最後の藩主・松平容保公の時代には、あの白虎隊で有名な会津戦争へとつながってゆきます。

「今まで武田信玄の娘で、会津の保科正之を育て浦和にお墓があるくらいしか知らなかったかも・・・」。見性院と言う女性は徳川家康公や秀忠公からも信頼され、本当にすごい方だったのですね。そして何より名君を育てました。以前聞いた事があるのですが、現在も会津の方々により、清泰寺で見性院の法要が営まれているそうです。「今でもの大恩を忘れずに、会津の人たちはすごい」と、その話を思い出しました。

 時間はお昼時。清泰寺から近くのお蕎麦屋さん「蕎楽房・一邑(いちむら)」さんへ。こちらのお店は父が生前に連れて行ってくれたお店です。かれこれ 年ぶりで、思い出もあります。

 店頭横の蕎麦を打つお部屋に、使用している蕎麦粉の産地が店頭張り出されています。天ぷらが大好きなので、天せいろを注文。すると、ものすごい量の天ぷらです。「こんなに沢山、食べられるかな?」と思いながらも、軽く揚がった天ぷらは本当に美味しい。蕎麦もコシがあり、少し辛めの汁に合って美味しかったです。父と最後に外食をした、思い出の蕎麦でした。

 お腹もいっぱいになり、今度は見沼田んぼへ。何やら大工事をしています。それも巨大な穴を掘っています。工事の説明を読むと、大雨の時に芝川に流れ込んだ水を、芝川第一貯水池と名付けられたこの池に流れ込ませ、下流の水害を防ぐ目的だそうです。「確かに川辺ののどかな風景は、ここだけかも・・・」。川口市方面は住宅が建ち並び、生活の場ですものね。水害は本当に困ります。

 規模は小さいですが見沼溜井は約300年ぶりに再び溜井となりますね。また多くの動植物の住処となり、バードウォッチングなどに良いかもしれません。浦和には誇れるものが有りますそれもこんな近くに・・・。(つづく)

※1 干支の庚と申が重なる庚申の日に、人の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫がその夜、寝ている間に天帝にその人の悪事を報告に行くと考えられ、それを避けるために徹夜で宴会や法要などを開く風習ありました。

 

※2 徳川家康公よりはじまる徳川家。家康公より現在のご当主で18代目となります。